言わずと知れたディックの短編小説が原作のSF映画。僕は1度、LAにいるときにこの作品を自宅で観たから、今回が2度目の視聴だった。
この作品の、SFならでは、そして、この作品のプロット(未来に起きる犯罪の予知)ならではのストーリーテリングと展開にすごく目が引かれた。例えば、下の主人公のジョンがダニーに銃を向けるシーン。銃を向けられても、ダニーはまったく怯まない。なぜなら、発砲することは予知されていないからだ。こういう細かい要素が、確実にストーリーと世界を創造していく。
主人公の過去の悲しみと苦しみは、現在、そして未来までに侵食してしまっていた。だが、彼は、未来に対する希望を得たことによって、過去に至るまでの悲しみと苦しみを洗い流すことができた。主人公は物語の始まりと終わりで、真逆の立場と感情を持つ人間になっていた。それは、物語とキャラクターディベロプメントを一つの環として観た時の解放感と美しさを僕は感じた。
また、個人の嗜好や生活スタイルに対応した拡張現実的な広告も映像作品としてのSFの鋭さと好奇心を掻き立てる。
技術が社会を、人間の価値観をどう変えるのか。驚異的な技術が、人間に幸福をもたらすのか。そして、もし、自分たちの社会を作り上げる技術に根本的なエラーがあったら、それを見つけ出し、受け入れることが人間にはできるのか。この作品での犯罪予知は、預言者の3人によって行われるが、それは、現在の僕たちのAIに置き換えて考えることができる。現代は、AIが高度なレベルとクオリティーで情報の収集、分析、決断、施行を行うことができる。欧米の方では、犯罪が起こりそうな場所と時間帯、シチュエーションをAIによって、導き出させて、警官がそこをピンポイントでパトロールするというなことが当たり前のように行われている。また、過去の犯罪のデータや、捜査の記録のビッグデータをAIに読み込ませ、分析させることによって、現在進行中の捜査にそれを活用することもできると思う。だが、もし、その技術、システム、概念を個人にフォーカスしたものとして取り入れたら、社会はどのような倫理観を携えて、それを受け入れるのか、もしくは拒否するのか。そこらへんの、矛盾、隔たり、葛藤や困難は、アニメシリーズの”PSYCHO-PASS”でも描写されている。生まれた頃からAIが当たり前の世界、生活必需品の世界で、AIを活用した教育システムで学習し、育つ、いわゆるAIネイティブ。そんな彼らは、自分たち生きる世界それ自体であるAIが明らかに、道徳的、倫理的に間違えてた判断を下し続けても、もしくは、AIが創り出す世界全体が間違った方向に進み続けても、それに気付き、指摘し、対抗し、変えることができるのか。僕は、この作品が描く一つの驚異的なシステム支配された世界を振り返りながら、そんなことを感じた。
とににもかくにも、リドリー・スコットといい、スピルバーグといい、ディックの原作の、人間の心にテクノロジーが産み出す金属的な冷たさが覆い、しかも、その上に冷たい雨が、しとしとと降り注ぐような世界観を再現しつつ、独自のストーリーテリングを展開できているのが凄い。