Project Fiction

プロの映画監督を目指す男(SFオタク)の戯言

マンチェスター・バイ・ザ・シー(2016、映画)

ケイシー・アフレックがアカデミー主演男優賞を受賞したマンチェスター・バイ・ザ・シーを観た。

主人公の感情とライフスタイルを映し出しながら、ローテンポで進んでいく物語が、そのオーディエンスである僕の心に染み渡っていく感覚が確かにあった。

時の経過を感じさせる演出は秀逸で、僕たちの心に共鳴し、シンパシーを感じさせてくれる。

過去を乗り越えるのではなく、過去と向き合うことが、自分自身が生き抜かなければならない現実を突き進めてくれる。

時の経過や過去と現在を組み合わせた演出は、間違いなくオーディエンスの心に響く。なぜなら、僕達は時の経過の中で生き、過去の羅列が現在を創り出している。その過去が悲劇だろうと、幸福に満ち溢れたものだろうと。

家族を失った叔父と、父親を失った甥。一見、お互いの心の空洞を補い合うには、最適な組み合わせに思えるが、虚無と虚無を組み合わせた時に、怒るのは対消滅にも似た反発だ。似た形のパズルのピースが組み合わさらないように。

 

ロブスター(2015、映画)

ロブスターという、変な恋愛映画を観た。

 

子孫を残すことを義務付けられた近未来で、妻と離婚した男性が、45日以内にパートナーを見つけなければ、自分が選んだ生き物に変身させられてしまうホテルで奮闘するお話。

あまりにもファンタジックで、フィクショナルな設定が淡々とひしひし進んでいく様が、画面上に写し出されるありとあらゆる事柄が、喜劇にも悲劇にもなりうる雰囲気が常に漂っていた。

結婚や恋愛といった僕たちが生きている現実世界での普遍的な概念が、フィクショナルすぎる世界観を持つこの作品とのリンクをオーディエンスとの間に作り出し、コネクトさせてくれる感触を覚えた。

他者を愛するということ感情そのものや行為の本質について考えさせられた。僕たちは、他者に対して、好意を抱くとき、その人自身を愛しているのか?それとも、その人自身を作り出している要素、エレメントに盲目的に惚れ込んで、その要素のつぎはぎを妄信的に繋ぎ合わせて理想の現実を創出しているだけではなないのか?その要素が崩れ落ちた瞬間と共に理想の現実、Ideal Realityは崩壊するのではないか?

 

P.S.

最近、まるっきりこのブログの存在を忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

CURE(1997、映画)

黒沢清監督の「CURE」

今回、僕自身、黒沢清監督の作品を初めて観た。

いきなり、他の作者と作品の名前を出してしまうのは、非常に忍びないんだが、伊藤計劃さんが、「虐殺器官」を書くにあたっての設定のアイディアになった作品といういことで、前から気になってはいた。

偶然にも、連続で役所広司が主演の映画の評論になってしまう。ということで、いろいろと書いていこうかね。

悪役はまるで、ハーメルンの笛吹きのように、対話相手の憎悪、狂気、不安を炙り出し、それを殺人衝動に昇華させる。

そして、この作品全体、ひとつひとつのシーンを支配する不安や狂気は凄まじい。

映像作品にもかかわらず、徹底的に、美しい情景や風景、ショットが排除され、登場しない。途中からはまるで、ディストピア作品をみているかのように感じた。

それこそ、ショット、アングル、ライティング、情景、音楽によって、この作品こそが間宮のようにオーディエンスに、不穏や不安な感情を植えつけにきているかのよう。

この作品はおそらく、一般的にはジャンルとして、サスペンスかスリラーに区分されるんだろうが、僕はSFに感じた。この作品で登場する催眠は、間違いなく脳"科学"の範疇だ。であるならば、この作品はれっきとしたSFだと思う。なんなら、ロボットや怪獣がでてくる作品よりも、サイエンスしている。

僕個人がSFの基準にしているscientificな fictionもしくは、fictionalなscience、どちらともいえるような作品だと思う。

まさか、ここまで、黒沢清監督の「CURE」が、伊藤計劃さんの「虐殺器官」に直接的までと言えるほどの影響を与えているとわ...笑

悪役の間宮はジョンポールだし、主人公の刑事、高部が、公的な悩み(連続猟奇殺人事件)と私的な悩み(妻の精神疾患)を持ち、その二つが、事件の捜査にのめり込んでいくにつれて、彼の内面で混じり合ってしまうのも、主人公のクラヴィスシェパードに似ている。

あと、高部と間宮の最後の関係性も、似ていたりもする。

CURE×MSG×戦争広告代理店=虐殺器官

僕の中では、この方程式が成り立ってしまう。それだけでは、決して、「虐殺器官」という伝説の作品を、語ることはできないが。

これは完全に余談だが、僕がLA映画留学時代に虐殺器官から影響を受けた、刑事物の短編作品を制作した。

「虐殺器官」×刑事モノということで、偶然にも、かなり僕の短編作品とCUREが似ていた。

www.youtube.com

こりゃ、僕の短編作品がCUREのパクリじゃないかと言われてしまうかもしれないな〜。

 

P.S.

最近、PS5 Proとゲーミングモニターを購入した。今後、発売されるDeath Stranding2とMSGΔのためにね。仕事も頑張らなくちゃいけない、自分の脚本も書き切りたい、読みたい本、観たい映画、アニメ、やりたいゲームもたくさんある。なんだか、古今東西、数多のクリエイターたちが築き、繋いできた、文化の遺伝子〔MEME〕に追い詰められている気がしないでもない。

 

PERFECT DAYS(2023、映画)

どうも、みなさん、お久しぶりです。久しぶりの投稿です。本当に、どうしようもなくくだらない、理由で、ここ新年始まったから3ヶ月ほど、全くもって、創作物というものを嗜んでおらず...

しかもそれが、そんなことが理由で創作物を読んだり観たりしなくなるようなヤツの評論なんて読みたくない!!!ってほどの理由でしてね...

まぁ、その理由はいつか書こうと思う。

ということで、本題に入ろうと思う。つい先日、2023年に公開した役所広司主演の「PERFECT DAYS」という作品を観た。以下が、僕が感じたこと。

アスペクト比がまるで、主人公が生きる物理的な世界観の狭さを表しているようではあったんだけれど、物語が進んでいくうちに、彼の内面に広がる世界、内宇宙は無限に広がっているように感じられた。

毎日、作業服に袖を通して、比較的低賃金で仕事をする、いわゆる”労働者階級”の悲哀と幸せが表現されている。これは、車などの製造業が盛んなドイツの監督ならではの視点だとは思う。欧米は、僕たちの生きる社会、世界の縁の下の力持ちである労働者階級のコニュニティが大きな発信力と影響力を持ち、内部だけではなく外部の他のコミュニティにも強い繋がりを持っている。一方、日本では、そもそも、労働者階級という言葉すら使われず、そういう仕事をする人たちで済ましてしまう。そんな日本人には、こんな作品を作るのは、難しいだろうなとは、率直に思った。

 

”この世界は本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えてもつながっていない世界がある”

 

僕は、作中のこのセリフが印象的だった。無口な主人公が解き放ったこの言葉にこの世界の本質が表されているのではないかと感じた。

彼がいうように、僕たち80億人は、別々の世界に住んでいて、一人一人の人生は混じり合っているようで混じり合っていないのかもしれない。”わたし”というのは、個人の中しか存在しえず、個々人の中に存在する”わたし”は、決して、互いに他者の”わたし”とは物理的な繋がりを持つことはない。それゆえ、人間は生まれてから、死ぬまで、実質的には孤独だ。

だが、この作品には、主人公の世界が他者の世界と混じり合う瞬間がある。

それは僕に、人間が他者に慈しみや、愛情、思いやりを持って生きることは、尊く、時には神秘的な事象だと感じさせてくれた。

 

P.S

2025年が始まって、はや3ヶ月が経とうとしているが、2025年は、今のところ自分史上最悪ぐらいについていない。このままじゃ、僕の人生が終わった時に、2025年がThe Worst Year of MY Lifeを受賞してしまう。

僕は無神論者だし、スピリチュアルなことも、たいして信じていない。だけど、自分の身に、不運なことや、悪いことがきたら、次は何か、良いことが起こるだろうなぐらいのメンタリティーは持って生きてきた。なのに、今年に入ってから、悪いことに次ぐ、悪いこと。こうなってしまったら、何もかもに、疑心暗鬼になってしまう。それは、自分や、自分自身の過去に対しても。早く2025年が終わってほしい。2025年は、ここから9ヶ月自由意志を消失して、気づいたら2026年になってるみたいなことにならないかな。まぁ、2026年になったところで、僕に、何か幸運が訪れる保証は、全くないのだが。

とりあえず、2025年の僕の人生に幸あれ。あと、みんなの人生にも。それと、新年のおみくじはもう引かないようにしよう。今年のは、”吉”だった。

 

 

 

新年の抱負(2025)

まさか、新年の抱負を年明けから、20日後に投稿するという、この男は本当にその新年の抱負を達成しようとするのかと、この投稿を読んだ人が懐疑的になってしまっても仕方がない所業(笑)

今年の仕事初めから、ほぼ休日抜きで、朝から深夜まで仕事だったから、その辺は許していただきたい...

だから、今年に入ってから、本を一冊も読了できてもいなければ、映画も一本しか観れていない。それに関しては、マジでクソッタレだ。どうにかしなければ...

ただ、年明け前から、2025年の抱負はしっかりと決めてはいたからご安心あれ。

ということ、以下↓が僕の今年の目標となる。

  • 脚本を3つ執筆する
  • もしも、年内中になにかしらでディレクターをやらしてもらえるなら、それに全身全霊を尽くす
  • マンガを読む(普段、活字ばかり読んで、あまりにもマンガを読まなすぎるから...)
  • アニメを観る(去年観た、アニメシリーズはPLUTOとだけだし、一昨年も全然観てないし、ドラゴンボールDAIMAもかなり楽しみにしていたのに、仕事が忙しく、3話目以降から追えなくなった)
  • このブログを頑張って更新する
  • 親孝行をする

といった、感じかな。

 

P.S.

今年の、正月休みの終盤に知らなければよかったと思うほどの、自分にとっては無慈悲な事実を知ってしまい、最後の2日間は、もの凄い嫌な気分で過ごした。良いこともあれば、悪いこともある。今年も、自分の人生において、様々な側面で、転換を迎えそうだそうだ。世の中は物語に満ち溢れている。

 

2024年を振り返って

僕は、去年、LAから日本に帰ってきて、今年から日本で初めて働き出した。

しかも、映画制作に関しては日本でトップの制作会社で。

これは、僕の人生の中でも、大きなターニングポイントであり、大切な第一歩だと思う。

来年には、僕は28歳になる。立派なアラサーだ。友人の多くが、結婚や婚約をしたり、子宝に恵まれたりしている。結婚式にだって、2度も参列して、親友が、幸せの絶頂を迎えるのを、まざまざと見せつけられた。

だけど、自分の好きなこと、情熱を注ぐことができることを職業にでき、この歳になっても、自分自身の夢と野望と理想を追い求めることができている、そしてなによりも、そんな環境に身を置くことができているのは、本当に幸せなことだと思う。

また来年のこの時期に、2025年が、自分自身のターニングポイントだった、新たなる領域に近づくことができたと思えるように頑張ろう。

2025年は、世界中のより多くの人に平和と安寧が訪れることを僕は願っている。

みなさん、よいお年を。

 

さようならTSUTAYA、コンテンツをありがとう

昔ながらのものがなくなって、寂寥感が心にしみわたる。そんな体験は、自分より上の世代の人間の話だと思っていた。だが、先日、僕はそれを味うこととなった。

地元にあるTSUTAYAが12月29日をもって閉店してしまう。

張り紙をみてみたら、20年前の開店。僕がちょうど、母と妹と共に、上海から日本に帰ってきた時期だ。いま思い返せば、僕にとってTSUTAYAはコンテンツの宝庫だった。幼少の頃は、ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊モノを母親や母方の伯父がレンタルしてくれた。ドラゴンボールだってそうだし。

中学の時は、サッカーのクラブチームの練習の帰りに、学校の朝読書で読むための、サッカー関連の文芸書をよくそこで買った。BONJOVIやNickelbackのCDをレンタルしたのだって思い出す。

LAから完全帰国したあとだって、散歩がてらにそのTSUTAYAに寄って、サブスクや、ネット配信されてない作品をレンタルしたりもした。

なんなら、このブログの最初の評論は、渡米前に観て、無性にもう一度観たくなった「ミッション:8ミニッツ」をTSUTAYAに借りに行った時に偶然発見した、「華氏451」の実写映画だ。僕が東京の映画制作会社で働き始める直前まで、いろいろレンタルしていた。年末に、また地元に戻った時は、売り出されている、作品を何本買おうかな。

技術革新やテクノロジーの一般化によって、需要が激減したり、消滅した職業は山ほどある。カメラの登場に影響を受けた、写実主義のアーティストのように。

これも、進化をし続け、良くも悪くも自浄作用が必要な僕たち人類の文化と文明の自然な流れなのかもしれない。

2024年12月30日に、僕の地元のTSUTAYAは過去のモノとなってしまう。しかし、僕の脳内の海馬の中で、思い出というカタチで、僕の生命が尽きる、その時まで、生き続けだろう。TSUTAYA独特の店内に充満した、プラスチックの匂い、なぜか僕は好きだった。

さようならTSUTAYA、コンテンツをありがとう。